夏休みに一気読み。
GoogleMapでゲッチンゲンの街を巡り、wikipediaで絵画を鑑賞しながら、ibookでこの小説を読むというのは今どきの読み方?
一方で書かれた文体は、高校生のときの現代国語で教科書にある明治の文豪の文章と格闘する感覚が蘇るほど古風。
このアンバランスな感じが面白い。
読み慣れない文体でも読み終えられたは、題材に惹かれたから。
朝ドラ「おかえりモネ」の今週の展開(3.11のときに仙台にいた主人公は妹に「津波見てないもんね。」と言われたことが引っかかり、後ろめたさを感じているシーンがある。)とリンクしているようで。
津波の被害を受けてはいないけど「被災地」と括られる場所に住む者が想う「あの日」。
10年経って語れるようになったこともあるし、まだ語れないこともある。想いは複雑で整理できていない。
小説だから表現できるものがある。そんなことを改めて認識させてくれた作品。
あのときの津波で行方不明となった友人がゲッチンゲンにいる主人公に会いにくる。
東北では「オガミヤサマ」とか「カミサマ」とか呼ばれるあの世とこの世を繋ぐ能力を持った人に「子どもの名前をつけてもらう」なんてことが日常会話でサラリと出てくる。そんなあの世とこの世の距離感は非東北出身かつ20年以上東北で生活する私には未だにわからないもの。
ただ、3.11以降、あの世にいる人に想いを馳せることが多くなった。
だからなのか、宮城県出身の作者が描くこの小説の世界をオカルトとは思わない。そんなこともあるかもね、3.11を経験した者の感覚ってこんな感じだよな、と。
そして、ドイツで西洋美術史を研究する作者ならではの絵画の表現。
アルブレヒト・アルトドルファーの「アレキサンダー大王の戦い」という名作に会えて良かった。
もしかしたら、ドイツを旅行したことがあって、絵画鑑賞が好きで、西洋美術史にも興味があって、宮城県で震災を体験したからこそ、この小説の世界に馴染めたのかもしれない。