しあとりかる-Theatrical-’s blog

観たこと聴いたことに愛あるツッコミを!!

情熱大陸「石巻日日新聞」

3.11から半年となるこの日に取り上げられたのは「石巻日日新聞」。
宮城県石巻東松島・女川を販売エリアとする小さな地域新聞社です。

石巻で働いていたことがあるので,個人的には馴染みのある新聞社。なんかの折に全然関連性のないいくつものジャンルを記者さんが1人で掛け持ちして取材で飛び回ってるなんて話を聞いたような。
そんな小さな新聞社が海を越えて同業者の注目を集めてたことをある記事で知って,驚きました。

4/16付け朝日新聞記事

震災翌日、油性ペンで号外 米で展示へ 石巻日日新聞
http://www.asahi.com/international/update/0416/TKY201104160095.html

東日本大震災で被害を受けた宮城県石巻市の夕刊紙、石巻日日(ひび)新聞が被災後の6日間発行した手書きの壁新聞が、米ワシントンにあるニュースの総合博物館ニュージアムに展示されることになった。困難を乗り越えて発行された歴史的な紙面として、ニュージアムが紙面の寄贈を日日新聞に求め、同紙が応じた。日日新聞は震災で通常の編集・制作・印刷ができなくなったが、記者は懐中電灯の光を頼りに油性ペンで記事を書き、避難所などの壁に張り出した。地震津波が襲った翌日3月12日付の紙面は「日本最大級の地震・大津波」の見出しで、13日付は「各地より救難隊到着」。印刷が再開できたのは18日付からだった。


日日新聞の奮闘ぶりを米紙ワシントン・ポストが報じ、これを読んだニュージアム職員が日日新聞に連絡を取り、寄贈の話がまとまった。ニュージアムはウェブサイトで「この新聞は、人間の知ることへのニーズと、それに応えるジャーナリストの責務の力強い証しである」と紹介。クリストファーソン学芸員は「大変な苦難に直面するなか、日日新聞のジャーナリストは地域社会に重要な情報を提供するという責任を果たし、そのためにペンと紙を用いた」と称賛している。ニュージアムは、報道に関するさまざまな資料や映像などを集めた博物館で、2008年4月にワシントンの中心部に移転・オープンした。(ワシントン=勝田敏彦)

壁新聞なんて小学生のときに作ったぐらいだなぁ・・・
ワシントンポストの記者は「ジャーナリストとしての自分たちの原点は?使命とは何か」を考えさせられたんでしょうね。
これを読んだ4月当時,私も自分のやるべきことってなんだろ?って思わされたニュースだったのでした。

3/21付けワシントンポスト記事

In Ishinomaki, news comes old-fashioned way: Via paper
という見出しでした。
初めてというくらい,真剣に英語の新聞を読み(yahoo!の自動翻訳を頼りにしながらですが・・・)そしてこの一文に引きつけられました。

Information-starved residents, said the proprietor, “depend on our newspaper for a lifeline.” It not only provides news about a catastrophe but also mundane, vital information: which shops have food, which roads have been cleared of rubble, which banks have cash and which branches of a popular liquor store have reopened.
<ざっくりした意訳(?)>
「情報に飢えた住民たちはライフラインとして我々の新聞に頼っています。」と社長は言いました。大災害に関するニュースばかりでなく、日常生活に不可欠な情報も提供しています。例えば,どの店に食べ物があるか,とか,どの道はがれきが片付けられているのか,とか,どの銀行が開いているのか,そして大型スーパーのどの支店が再開しているのか,ということを。


停電中,一番欲しいと思ったのはまさにこういう情報でした。

9/11放映の情熱大陸

番組初の試みとなる生中継だったようです。印象に残った場面をピックアップ。

中央のマスコミとの違い

記者がこう語る。

中央からやってきたマスコミの人がすごいうらやましかった。
ガソリンを沢山持ってきて取材してて。
私たちはほんとに足がなくて 自転車に乗って取材していたり。
そういう悔しい思いっていうのは最初の時期はしていた。

同級生との会話

地元・女川出身の入社したばかりの記者は自宅が津波で流された。取材先のイベント会場で同級生と再会。

記者:こんなの当たり前のことなんだけど 家ないよね。
同級生:ないよ 親も亡くなった お父さん

1面トップ

8月11日の1面トップは先行きの見えない復興政策への批判記事を掲げる予定だった。が,その日水産担当の記者がサンマの大型船出航の取材に行ったところ,偶然,初水揚げのカツオ船の写真を撮影できた。急遽ギリギリでサンマ船&カツオ船の話題に1面を差し替えたというエピソード。漁業の街ですから。

私たちはローカリスト

外処(とどころ)記者のコメント

私たちはジャーナリストではなく,ローカリストだと思う。
地域の中で取材していく。
その中には喜びもあれば悲しみもあり,それを記録して残していく。一番は風化させないこと。

番組を観終わって

3.11の次の日の朝,玄関先の新聞受けに新聞(全国紙)がなく非常事態だから当たり前だよねぇ・・・とふとお隣さんの新聞受けを見たら,河北新報(東北ブロック紙)がちゃんと入っていて驚いたこと,
翌々日にはうちにも新聞が届き,数日してから新聞販売店から「お届けできなくてすみません。ガソリンがないので車で配達できませんが,体力の続く限りお届けします。」というチラシが入っていたこと,
なのに新聞の記事に目を通しても読みたいと思うような,日常生活に必要な記事が全然載っていない・・・と東京との距離感をものすごく感じて3月,4月はずっと河北新報のweb記事を読んでいたこと
民放の報道特別番組での,キー局から派遣されたレポーターと石巻の避難所で生活する人とのやり取りの中で見え隠れするレポーターの妙なテンションの高さと,避難住民のつっけんどんな口調という落差
そんなことを思い出しました。


震災から半年。東京から発信される全国ニュースはいつまでも震災関連がトップというわけにはいかず,取り上げられる量が次第に減って行ってしまう。そうなると,徐々に被災地の方たちは自分たちは取り残されている,切り離されている・・・と感じてしまっているかもしれません。
そんな状況のなかで,地元の記録をずっと残し続けている石巻日日新聞という存在は石巻エリアの人たちにとって心の大きな支えになっていくのではないかと感じまして。


震災時の壁新聞の話だけではなく,現在進行形の姿がありのまま,でもよく整理されていてわかりやすくポイントを押さえた番組構成でした。
石巻の漁業復興の話題が出るとテンションが上がったのは,第3の故郷だからかなぁ・・・