- 作者: 五木寛之
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1994/07/20
- メディア: 新書
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著者自身が、パンフレットのようなつくりを意識したとあとがきで書いてるし。
蓮如さん(ほんとは「上人」と書かないといけないんだろうけど、五木氏が「さん」と書いてるからそれに習って)の名前を意識して聞いたのは
- 作者: 五木寛之
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1996/11
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それよりも前に出されていた本なんですが、出た当時に読んでも、今ほど面白いと思って読めなかっただろうな…
面白いなぁと思ったのが,室町時代における荘園制度の崩壊・「惣村」の形成と蓮如の布教活動との関連性を説明していくあたり。経済力はあるけれど,既存の社会システムでは卑しい身分とされてきた人が,熱狂的に蓮如さんの説く教えに飛びついていった様が見えるようで。
浄土真宗については中学レベルの日本史の知識しかない私でもすんなり読める,入門書的な本なのです。
そういえば,浄土真宗のお葬式で読まれるという,蓮如上人が書いた白骨(御文)。なんか気になる文章なんですよね。
(wikipediaより)
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら觀ずるに、おおよそ儚きものは、この世の始中終(しちゅうじゅう)、まぼろしのごとくなる一期(いちご)なり。
されば、いまだ萬歳(まんざい)の人身(にんじん)をうけたりという事を聞かず。一生すぎやすし。今に至りて誰か百年の形体(ぎょうたい)を保つべきや。我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、遅れ先立つ人は、元のしずく、末の露(つゆ)より繁しと言えり。
されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、即ち二つの眼たちまちに閉じ、一つの息ながく絶えぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李(とうり)の装いを失いぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりて嘆き悲しめども、さらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて夜半(よわ)の煙となし果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。あわれといふも、なかなか疎かなり。されば、人間の儚き事は、老少不定(ろうしょうふじょう)のさかいなれば、誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり。 あなかしこ、あなかしこ。
(意訳)
さて、人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ儚いものは、人間の生まれてから死ぬまでの間のことで、それは幻のような生涯です。
それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなんてことを聞いた事がありません。人の生涯は過ぎ去りやすいものです。今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。〔人の死とは、〕私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、人より後であろうが先であろうが、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。
それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。もはや無常の風が吹いてしまえば、即座に眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、一切の親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできない。
そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、ただ白骨だけが残るだけです。哀れと言っただけでは言い切れない。人生の終わりは、年齢に関わりなくやってくる。だからどのような人も「後生の一大事」を心に留めおき、心から阿弥陀仏に頼み申上げて、念仏申すべきであります。
3.11があったからこそ,気になるのかもしれません。